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重要文化財史跡 日本第一大霊験根本 熊野神社(十二社権現)
倉敷市林御鎮座
御祭神 伊邪那岐神 伊邪那美神 天照皇大神 十四柱を祀る
由緒
住昔より熊野十二社権現として広く知られた大社で、文武天皇大宝元年三月紀洲熊野本宮を法事、聖武天皇御崇敬厚く児島一円を本宮領として寄進あり、本宮に模して御社造営、木見に新宮、山村に那智宮を建て、新熊野三山としました。
熊野詣でが盛んになるにつれ当社参詣途次の奉幣所として九十九王子権現を建て、又附近に山伏、別当付属僧坊寺等、五十余ヶ院に及び、当社の出仕寺院としました。
孝謙天皇紀洲熊野山に対し日本第一大霊験根本の称を奉られ、当社も其号を称する事になった。白河上皇以後代々上皇、貴紳等続々紀洲へ参詣あり、特に後白河上皇三十四度、後鳥羽上皇二十九度の多きを数え、殊に元久二年児島一円を本宮神領として再度御寄進ありましたので、紀洲熊野より荘務執行仕置等の諸役多数来り神領としての政を行い紀洲との交流も盛んに行われました。
其後承久三年の乱に敗れ、後鳥羽院は隠岐島に配流され、第四皇子頼仁親王は当地へ配流となり、二十六年間御在世の後薨去され諸興寺に葬り奉った。此間後鳥羽院は隠岐島にて崩去されましたので、親王は仁冶元年当境内に石造宝塔を建て日々御供養されたと伝える(重文)、又桜井宮覚仁法親王も乱をさけ下向されたと伝へるが、同宮は熊野三山検校宮にて特に五流山伏を取立てられたので、同親王の供養塔も境内池中に建てたと伝へます。これより前、建仁三年児島下之町宗願寺に宝塔を建て、建治二年に熊野道に地蔵を安置し、清田八幡神社、広江に紀洲の神倉社を移して天石門別保布羅神社を祀り、俗に釈塔院様として広く信仰を集め、其他玉野市滝、早島町八尾及備中吉備津の熊野権現又所々に残る王子権現等沢山の熊野社が建立され、其後も彦崎の天神宮、中庄及西阿知の熊野神社等々多くの分社や関係社が建立され、如何に大きな勢力を持っていたかを物語っております。
其後元弘の乱に朝廷に味方した紀洲熊野別当も戦に敗れ大きな痛手を蒙り、又当社僧の縁族も南朝に従い敗れるに至りさしもの大きな勢力も衰微するに至った。応仁三年兵火の為社堂悉く炎上に及びましたが、別当大願寺天誉再建を志し諸国勧進の後、明応元年先づ一殿建立(重文)以後復興を見るに及んだが神領は次第に減少し中国管領大内義興、毛利家父子の守護を受けたが児島一円の領地は僅か三ヶ村に減じ豊大閣の時年百石の寄進あり。応て池田光政公寺院陶法の節当社の由緒を尊び備前半藩特別崇敬社とされ社殿の建替を命ぜられ(県重文)年二百石寄進あり、更に神社としての祭祀を明確にする為備前吉備津宮太守大藤内の弟に移住を命じ、神前祭祀を専らにさせる等厚い保護の下に明治に至った。
斯様に大変古い歴史を持ち乍ら延喜式神明帳に載らなかったのは、一に紀洲熊野が最高位の官幣に預かっていたのでそれで良いと考えた事、奉仕が僧、山伏で仏教色が強かった事によるものと考えられるが、当社の本源は紀洲と同じく神社であるので、昭和十九年官社昇格を申請中の処終戦に至り、社格の高下は無くなった。然し社堂悉く国県の重文であり境内山林共に史跡指定を受けた事は他社に比を見ないことにて、日本人の心の據所としその維持保全に万全を期しており、広く皆様の御協力をお願いする次第であります。
「・・・・・一度致参詣即垂十二時擁護、一念至信敬能払年中十二障難、誠利生度大功在、熊野山神威重徳極十二所権現者也(熊野霊験記)」
(以上大略を記す)
(不許転載)
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